酒こそ我が歓び。酔いゆく者こそ美しい
図書館で借りた本が面白くて、うっかり夜更かしをしてしまった。
寝不足に初夏の日差しは辛い。アドルは日陰を探しながら住宅街の中を歩く。
寝不足は寝れば解消するのだが、昼寝をしていると過保護の域に達している心配性の母が煩い。なので今までは、単なる惰眠を求める時、いつも幼馴染の家に上がりこんでしていた。
今はもっと快適な空間がある。
「おはようございまーす」
明るい声であいさつをして、アドルは古い洋館に足を踏み入れた。誰もいないのだろう。明かりのついていない洋館は、薄暗くひんやりと涼しい。
靴を脱いで、アドルは一直線に正面にある階段を上る。二階には寝室があった。ここにいる自称座敷童のこだわりなのか、そのベッドの寝心地はとても良い。柔らかすぎず、硬過ぎないマットレス。ふわふわとしているのに、身体をゆったりと包み込んでくれる羽毛布団。枕は数種類用意されている。アドルが好きな枕は、ビーズクッションの大きな奴だ。
リネン室からお気に入りの枕を取り出し、アドルは仮眠用の寝室へと向かった。閉じられている扉を開いて、彼は立ち尽くす。
先客がいた。
どうしよう……
羽毛布団がふっくらとふくれている。布団の上部から金色の髪が覗いていた。
金髪と言えば、心当たりは二人。アレフレッドとサルムのブラック代理二人だ。どっちだろう、と首を傾げた時、布団の中から声が聞こえた。寝言の様だ。
「そんな、酷い……」
――一体何の夢を見ているのだろうか、アレフレッドは。
とても気になったが、アドルは叩き起こす事を躊躇していた。
これがアレフだったら、ロトの声音を真似て叩き起こすだろう。レックだったら、耳元で色っぽい声で名前を呼び、ふっと耳に息を吹きかけてやる。だが、アレフレッドにその手の悪戯はやりずらい。この手の硬質な真面目人間には。
アドルだって、悪戯を仕掛ける相手は選ぶのだ。笑えなければ、悪戯の価値などないから。
「フェイ」
少し迷ってから、アドルは中空に向かって、この家に住みついている神の名を呼んだ。
「なんだ?」
彼は普段いることを忘れるくらい大人しいが、呼べば必ずすぐに現れてくれる。今回も、アドルの視線の先に、ぽんと現れた。
「昨晩、駄目な大人の集いがあった?」
「おう」
敢えて一般的な呼び名を避けて訊いたが、彼はちゃんと理解してくれる。
「アレフレッドだけだったんだ」
「だいぶ、仕事で疲れていたみたいだぞ。すぐ潰れた。サルムは大丈夫だったのに」
「そりゃ、起こしちゃ可哀想だね」
「そもそもこれ、起きるか?」
部屋で遠慮ない声で二人が喋っているのに、ベッドの主から聞こえてくる寝息は変わらない。
「確かに、殺しても起きなさそうだ」
「殺したら起きねーよ」
ははは、とアドルは軽く笑って、部屋を後にした。良い事を思いついたのだ。
アドルは軽い足取りで階段を下りる。その後ろを、ふわふわ浮かんでフェイが付いてきていた。
フェイを引き連れたまま、アドルはめったに立ち入る事をしない台所へと入る。目的は、食器棚の一角にあるファイル群だ。
そこには主に、ここでアレフが作った料理のレシピが並んでいる。几帳面なノアがわざわざまとめたものだ。現段階で、キングファイル三冊。塵も積もれば何とやら、である。
アドルはそのファイルの端にある、薄いファイルを手に取った。そのファイルの背表紙には『ケネスのレシピ』と書かれてある。これも、ノアの作品だ。感心するくらいマメな男である。
「優しいな」
「そんなんじゃない」
フェイは、アドルが探している薬のレシピを察したらしい。だが、それは決して親切心ではない。
「さっさとあのベッドを明け渡してほしいんだよ」
「起きないと意味ないし、しばらくあの部屋酒臭いぞ。昼寝したいなら、別の部屋ですればいい」
何を無粋な事を。
「私は、あの部屋のベッドが好きなんだ」
ファイルから目的のレシピを取り出して、アドルは薬草棚へと向かった。取り出したレシピは、フェイの察した通り、酔い醒ましのレシピである。
棚に並んでいる瓶には、丁寧に一つ一つ中身の名前が書いてある。アドルはレシピとそれを見比べながら、必要な薬草を取り出した。薬である。万が一にも間違えてはいけない。レシピを読んで大体覚えていても、確認しながら作業は行うべきである。
それぞれ明記されている分量だけ、乾燥させた草を鍋に入れる。表記がグラムではなく、葉何枚、という点に不安を覚えないわけでもない。だが、『少々』とか、『適量』程アバウトな記述ではないから、大丈夫だろう。
「お前が台所に立つ姿なんて、初めて見た」
「料理を美味しく作れる人が居るんだったら、無理に私がやる必要ないだろう?」
食材だって、美味しく作ってくれる人に調理されたいだろう。
「今は一人だからか」
察しが良いのは助かるが、敢えてそこに対するコメントは控えさせていただくことにした。
分量がしっかりと書かれている薬だったら、ちゃんと作れる気がした、だなんて言えない。多少不味くても効果さえあれば大丈夫だろうとも。
コップ何杯、とこれまたひどく振り幅の大きい記述に不安を覚えつつ、鍋に水を入れ、火にかける。
一度煮立ったら、弱火にして、トロトロになるまでかき混ぜる……トロトロ?
首を傾げるところもあるが、レシピを信用することにした。で、トロトロとは、どの程度だ?
十数分後――
「アドル、お前、凄い才能だな」
120パーセントくらいの皮肉を聞かせたフェイのコメントに、アドルは沈黙で応える。
湯呑茶碗になみなみと盛られたそれは、良く言えば抹茶色、悪く言えばヘドロ色をしたものだった。おそらく、かろうじて液体に分類してもいいのではないかと遠慮がちに申告しても良いだろうかと誰かに聞かないと自信が持てないそれは、幸い無臭だ。
完成図が無かったので、これが正解なのかどうかはレシピを作った本人にしか解らない。が、違う気がする。根拠はないが、確信できる。
「薬なんだから、もっと精密に書け」
アドルは八つ当たり気味にレシピに向かって吐き捨てて、ファイルを棚に戻す。同じ棚に片づけてある盆を取り出し、作品が入った茶碗を置いた。
これを、酔い潰れているアレフレッドの枕元に置いておく。起きたら、飲んでもらえるように。
水がなみなみと入った大き目のデカンタも添えてあげよう。なんて優しいんだ。
「本当に、これ、アレフレッドに飲ませるのか?」
「飲むも飲まないも、彼の自由だ」
心配そうなフェイに、アドルはあっさりと答える。手渡しされたら飲まざるを得ないかもしれないが、置いてあるだけなら無視する事も可能だ。選択の自由を与えるのも、優しさである。
一応材料はレシピ通りだし、そこに毒になるようなモノもなかったから、死ぬどころか腹を下す事もないだろう……おそらく、たぶん。
「毒見とか」
「それをするなんてとんでもない」
「お前、鬼だな」
失礼な。酔いで苦しんでいる人の為に、一滴たりとも無駄にできないと言う、心配りではないか。
仮眠室のベッドにあるサイドテーブルに『作品』を盆ごと置いて、アドルは再び階段を下りる。
「駄目な大人の集い、ここで頻繁にやっているの?」
気になったから、フェイに聞いてみた。最近はよく来る、と言うのが、彼の答えだ。
「ああいう風に潰れるんだ」
「サルムは半分は潰れている。アレフレッドはこれでも初だ」
「で、潰れたらここに泊まる?」
「サルムは、婚約者が運転手つきで迎えに来た。アレフレッドは――」
確か、結婚していたはずだ。フェイの表情から、奥さんは迎えを拒否した、という事が分かる。
「道端に転がしておいても目覚め悪いよね」
「ま、別に俺はここで寝ても構わないしな。ヤバければ、救急車呼べるし」
そこまで潰すなよ、いい大人が。
「残りの二人は?」
「あれらに付き合っているから、あの二人は潰れるんだ」
「ふーん……」
つまり、アレフとゾーマはかなり強い、と。
そこでアドルの悪い癖が出た。沸き起こった好奇心を抑えないと言う、癖が。
「酔ったらどうなるんだろう」
「見た事ないな」
「ゾーマも?」
はるかに昔から顔見知りの彼の酔った姿すらも?
「俺は、無い」
それは、見たい。是が非でも。
アドルは再び台所へと向かった。スキップしながら。
その後姿を、フェイが胡散臭そうな物を見る表情で、追いかけてきた。
「こんにちは――って、なにやっているの?」
昼過ぎ、ナナと昼食をとってからヒーローズの基地にやって来たノアは、居間に散らばっている紙の束を見て、唖然とする。
手に取れば、それはノアがまとめたアレフのレシピだ。こんなに散らかして……片付けるのが大変じゃないか。探しやすいようにちゃんと並べてファイリングしていたのに。
「あーさわらないで!」
悲鳴を上げたのは、ロト。どこからどう見ても散らかしているようにしか見えないが、彼女の中では法則があるのだろう。ノアはごめん、と言って、元に戻す。
見回せば、レックとアドルもレシピをひっくり返している。彼らが台所に立っている姿を見たことないのだが、目覚めたのだろうか。ティアも奥のソファでゆっくりとファイリングされたままのレシピを眺めている。そんな彼らの様子を呆れた表情で眺めているのが、最年少のアレンだ。
「ノア、待ってましたっ」
ロトの隣でファイルを漁っていたアドルが、弾む口調で彼を歓迎した。深い蒼の瞳が、キラキラと輝いている。アドルの声に、一心不乱にレシピを散らかしている――ノアにはそうとしか見えない――レックが元気よく顔を上げて、叫んだ。
「君が頼りだ!」
うん。全然状況が掴めない。
「――で、なにをやっているの?」
「うん。飲み会をね……」
と、その時、この世の終わりのような絶叫が、二階から聞こえてきた。
「やった、飲んだ!」
アドルが嬉しそうに手を叩いた。
絶叫の主は、アレフレッドだった。
昨夜行われたブラックズの飲み会で潰れて、今まで仮眠室で寝ていたらしい。起きたら、サイドテーブルに『ご愁傷様。酔い醒しです』と、綺麗な字で書かれた可愛らしいメッセージカードと、酔い醒しらしい物体Xがあったので、寝惚けた状態で口にした――ら、叫ばずにはいられない味だったとか。
物体Xと自ら言うようなものを飲むなよ、と心の中でツッコまざるを得ない。
「効果は?」
キラキラした目で聞くアドルに、効いたかもしれない、と頭を振りながらアレフレッドは答えた。一口で、飲み過ぎた後の倦怠感は、吹っ飛んだらしい。
「凄いな。流石だな、ケネス印。あんな適当なレシピで、ここまでの効果とは」
踊りださんばかりだ。今日のアドルは妙にハイテンションだ。不安になるくらい。
「残りは?」
「一気飲みした」
それでも飲み干すあたり、生真面目なアレフレッドらしい。
「味は酷いが、後に引かないから、我慢は喉を通り過ぎるまでだ」
そうか、とアドルは嬉しそうだ。物体Xは、彼の粋(?)な計らいだったらしい。
「そうか。なら、今度酔い潰れたら、また作るよ」
「ただし」
アレフレッドは半眼になってアドルを睨む。
「ケネスから頂いたアレは、もっとマシな味だった――なんでああなる?」
「…………あ、ノア、なにやっているかって話だよね? えっとね――」
アドルは、逃げ出した。
レシピを漁っている理由は、この家で飲み会をやるかららしい。
ザルどころかワクだと言う噂のアレフとゾーマを、全員で酔い潰すためのパーティを開く、というのが正確なところだ。
発案者はアドルで、それにノリノリで賛同したのがロトとレック。どちらでもいい、と傍観していたら、巻き込まれていたのがアレンとティアだ。
「酔い潰すって……」
ノアは珍しく眉間にしわを寄せた。それがどういう意味なのか、分かっているのだろうか?
「ふむ。それは俺も見てみたいな」
つい昨日酔い潰れたアレフレッドは、アドルの企みに否定的ではないらしい。
「そんな楽観的な……下手したら、命に関わるんだよ?」
「そうならないように、ノアが必要なんだよ」
ノアは手を頭に当てて唸る。
「こう、危険じゃなく心地よく酔えて、後に残らないような、飲み合わせとか食い合わせとかさ、知らない?」
「そもそも、酔う時点でアウトなんだけど?」
「そう言わずにさぁ……」
「これはどうだ!」
レックがソファの上に立ち上がる。
「ウィスキーのエナジードリンク割」
「きゃぁぁぁっっっかぁぁぁぁぁ!!!!!」
なんてことを言い出すんだ、レックは!
「今のところ決まっているのは何だ? 見せろ、全部見せろ!」
彼らに任せると取り返しのつかないことになる。確信した。これは、止めるよりも、安全に終わらせることに全力を尽くすべきなのだ、と。
「オレのいるところで、何人たりとも急性アルコール中毒にはさせないっ!」
ノアは叫んで、テーブルの前に座る。
「ノア君かっこいい~~」
「いいから、見せて!」
ノアは、手を叩いて喜ぶロトから、レシピを奪いとった。
「おーい」
ぴょん、と中空にこの家の座敷童が現われた。ノアは驚いて、折角片づけたレシピを落とす。ノアは、この唐突な出現になかなか慣れない。
「カグヤ……ゾーマの秘書から確認取ったぞ」
「いつが空いているって?」
「今週は国内にいるって。アレフは?」
ターゲットの二人は、いつも忙しく世界中を飛び回っている。ヒーローズでパーティを開くにしても、二人の予定を合わせるのが、一番の難関だ。
そのなかで、良くブラックズは会議を開いているものだ、とノアは感心すらする。実は彼等、この中で一番仲よしなのではないのか?
「だいじょーぶ。社長権限で、いつでも空けるよ」
それで良いのか、ロト。
「じゃ、飲み会と言えば花金だな!」
「はなきん?」
アレンが首を傾げる。これは、しょうがない。子供は知らなくてもいい言葉だと思う。
「金曜日だね。じゃ、アレフさんの予定、調整しておくねっ!」
こうして、決まった。
決戦は、金曜日。
そして――
アドルが『アレフとゾーマを酔い潰す会』を開いた事を後悔するまでに必要な時間は、三時間だった。
それが、飲み会が混沌と化すまでに要する時間として、長いのか短いのか、アドルにはわからない。だが、これが駄目な大人の集いというものだ、という事は良くわかった。
アドルが提案し、仲間全員で企画したこの会は、上手くいったと言っていいだろう。大成功だ。
しかし、上手くいきすぎて、収拾が付かなくなっている。
さすがに飲み会未経験の未成年は、これをどうにかするノウハウを持っていない。
アドルは、合唱団の打ち上げくらいしか大人の集団が酒を飲んだ姿を見たことが無かった。なので、精々あの程度だろうと思っていたのだが、甘かった……世界は、アドルが知るよりもっともっと大きい。まだ、自分が青二才であることを思い知らされる。
こんな事で思い知りたくはなかったが。
「ぷっ……くくくく……っはははははは!!!!!」
アドルは顔をしかめて耳を手で覆った。ぶっ壊れたスピーカーのような大音響で音ハズレの笑い声をあげているのは、アレフだ。
まさか、アレフが笑い上戸だったとは……意外すぎて、最初に彼の笑い声を聞いたときには、思わず手にしていたりんごジュースを落としそうになった。
最初は意外性が面白かったが、そのうち耐えられなくなった。あの、うっとりとするくらい深い響きを持つバスが、完膚なきまでに壊れている。素人が奏でるバイオリンの様に雑音だらけの不協和音を奏でる。
アドルよりも耳のいいレックは、いつもの陽気さを捨てて本気で苦しんでいた。そして彼がとった手段が、酒に逃げる――だが、アルコールの量に比例して上がるテンションでも、その不快な音に耐えることが出来ないのだろう。
「ははは……って!」
テンションと気が大きくなったレックは、うるさいアレフと、容赦なく彼の頭にとび蹴りを食らわし、笑いを止める。頑丈なアレフは頭を蹴り飛ばされてようやく笑いを止め、眉間にしわを寄せ加害者を睨み付けた。
「くそ、こらぁレックぅ……ぷはははは」
しかし、それも長く続かない。何が楽しいのか、再び奇怪な笑い声をあげる。
一方のゾーマは、一人ディナーショーだ。
床の間を背に朗々と詩を語る。
こちらはいつも以上に音楽的な声で、詩を朗読する。選ぶのは海外の古典だ。日本語で語った後、原文で語り、そして解説に入る。
その解説は、主に誰に贈るだの、誰に相応しいだの、と言った主観に満ちたもので、この詩がいつだれがどういう意図で作ったか、と言った類の薀蓄ではない。
因みに、送り先は主に女性。しかも、歴史に出てくるような偉人だ。
さすがゾーマ、口説くターゲットも一味違う。
ゾーマの詩と口説きを聞いて、アレフが爆笑する。レックは、アレフの笑い声が音の凶器になる度に、とび膝蹴りで黙らせ、ゾーマの歌が絶好調になるとどこからともなく取り出したハープでBGMを奏でる。即興の様だが、さすがである。とても詩にあった曲だ。
他の大人達も、それなりに酒が入っている。流石にターゲットだけを飲ませると言うのは無理だったからだ。
奇怪な爆笑を繰り返すアレフに絡みついているのはロトだ。酔った彼女の行動を目の当たりにして、アレフがロトの酒を必死に止めていた、と言う理由を理解した。彼女の酒は典型的、いや、重度の絡み酒。自分の手の届く範囲にいる人物に、これでもかと言うぐらい絡む。絡む。絡みまくる。まさかのお色気攻撃までしてくる。ぱふぱふまでしてこようとする。
おかげで、彼女の周りには、酒とアレフ以外何もない。
ブラックズの二人は、ゾーマとアレフの酔いっぷりに、自分達の酔いが醒めてしまったらしい。ドン引きの表情で、ゾーマの朗読を聞いて、それでもまだ、蒼い顔でちびちびと酒を飲んでいた。
一方、未成年組は大人達から逃げ出すように、部屋の隅に集まって彼らの様子を眺めていた。
「どうしよう」
「どうしたの?」
レモンスカッシュを片手に、アドルと並んで壁際に座っていたティアが首を傾げる。
「逃げ出したい……」
「発案者が?」
逃げれない、とわかっているから「どうしよう」なのだ。
「なんて言うか……凄いな」
同じくアルコール禁止のアレンが、コーラをあおる。
「アレン、ああなっちゃ駄目だからね」
「ああしたの、お前だろ?」
「うん。ごめんなさい」
アドルは大人しく頭を下げた。全く、バカな事を考えてしまったものだ。
しかしこれは、良い体験だ。後悔しているが、やってよかったとも思っている。
「ノア、台所に逃げたの知っている?」
ティアの問いに、アドルは首を縦に振った。え、そうなのか? とはアレン。彼は、ノアが結構早い段階で消えているのに、気付かなかったようだ。
「彼は、結構前から食事と酒の提供に専念している。結構世渡りが旨い」
「アドルも手伝えばいいじゃない」
「なんかね――」
それが一番簡単な逃げ道なのは知っている。
「それはそれで、面白くない」
せっかく、滅多に見せない大人たちの醜態だ。一時たりとも見逃したくない、という気持ちも大きい――いや、気持ちが大きいのだ。
「逃げたら負けかな、と」
口では、そう答えた。
嘘ではない。
ノアが子供たちの為にフルーツの盛り合わせを持ってきた時、床の間に飾られている、光の珠が輝いた。魔物が現われた合図である。
同時に、全員が持っている端末から、声が聞こえてくる。
『魔物だヨ……ひぃっ!』
が、その語尾が、悲鳴に変わった。
アレフがものすごい目つきで、携帯端末の画面を睨み付けたのだ。
最高記録ではないかと言う眉間のしわの深さ。その視線が通った先は何も残らないのではないかと思えるくらいの鋭い目つき。
さっきまでの陽気な姿など、跡形もない。
その目つきのまま、アレフはゆるりと立ち上がって、ソファに携帯端末を投げ捨てた。
「俺達の呑みを妨げる者は誰だ……」
底の見えないほど深い声。妨げる者を全て呪い殺さんばかりの重い響き。
続いて、ゆっくりとゾーマが立ち上がった。
一見いつもと変わらぬ穏やかで飄々とした態度である。先ほどまでの饒舌が嘘のように、静かなだけで。
なのに、何故だろう。
怖い。
逃げたい。
「そのような輩は、我が胸の中で息絶えるがよい!」
これもまた、深く広く、世界にあるすべてを闇に覆い尽くすかのような声。
誰もが動きを止め、二人を見る。その表情に怯えが浮かんでしまっていても、誰も笑えない。
「おろか者め! 思い知るがよいっ!」
「ふたたびび生き返らぬよう奴等の腸を喰らいつくしてくれるわっ!」
二人は叫んで、駆けだした。
彼らが去った後、かたまってしまった空気が動き出すまでに、どのくらいの時が必要だったのか、アドルにはわからない。
一番最初に我に返ったのが、誰だったのかも。
「どうしよう」
ただ、一番最初にそれを見つけたのは、ティアだった。
「どうした?」
青ざめて、いつもよりも勢いのないレックが、首を傾げる。
「二人とも、携帯忘れてるよ」
「あ」
ティアは、ソファと卓上に置かれた二つの黒い小型端末を指さした。それは、ヒーローズに変身するために必要な端末だ。
「でも、あれ、大丈夫じゃねーの?」
出口を呆然と眺めていたアレンが、冷や汗をかいたまま言う。
「さすがに、生身だと大変じゃないかな」
アドルは左右に首を振ったが、自分の意見に自信は無い。
「世界も滅ぼしそうな勢いだったな」
「ヒーローっつか、魔王だよな……しかも『大』がつく」
「いや、そんな、まさか……」
ノアが虚ろな笑みで否定する。しかし、誰もそれに賛同する者はいなかった。誰もが引きつった笑みを浮かべるしか、できない。
しかし、大魔王達だけを行かせたままにするわけにはいけない。一行は追いかけることにした。……魔物も倒さなくてはいけないし。
変身して追いかければ、生身の彼等に追いつけるだろう。いくら彼らが大魔王級だとしても。という事で、早々に出動する事にする。
しかし、問題はまだあった。
「あっちゃぁ~ん……行っちゃいやぁ~~」
「お、俺は確かにアレフだが、貴女のアレフではないっ!!」
絡み酒がクライマックスのロトである。
彼女は、行ってしまったアレフの代わりに、一番近くにいたアレフレッドに絡み付き始めた。その力、ダイオウイカの触手の如し。
イカの触手は十本ある。ロトのが絡む範囲もそのくらいある。これ以上放っておくと、被害は拡大しそうだ。そうなる前に、行かねばならない。
アドルはしゅたっと手を上げて、爽やかな笑みを浮かべた。
「じゃ、アレフレッド、ロトは任せた!」
「は、待て、これ、俺一人で!?」
察しのいい大人は好きだ。
「レック、アレフ達を追うよ!」
ぽん、レックの背中を押す。それだけで別に察しているわけではないのに、友は動いてくれた。
「おう! 行くぞ、愛と勇気とアルコールの戦士ヒーローズ!!」
「半分未成年だぞ、レック。アルコールは早い」
「突っ込むのそこなんだ……」
真面目に注意するノアも、小さくつっこむティアも、迷わずリーダーの後に続く。
「ごめん、アレフにーちゃん!」
「アーレーンーーー」
アレンは従兄の叫びに、苦渋の表情を浮かべる。しかし、聞こえない、とばかりに両手で耳を抑えて、駆け出した。
「えっと……」
「サルム、来て! 今日は君がブラックだよ」
どうすればいいのかと右往左往していたサルムが、アドルの声にはっと顔を上げる。
先に駆け出した二人は変身ツールを持っていない。アレフレッドはダイオウイカに絡まれて抜け出せない。今、ブラックになれるのは、サルムだけだ。
「わかった、行く」
「サルム!」
悲痛なアレフレッドの叫びに、サルムは爽やかな笑みを浮かべて親指を立てた。
「ブラックは、オレに任せろ!」
そして、すでに駆け出した仲間たちを追うために、彼もまた駆け出した。
背後から、違う! という叫びが聞こえてきたが、聞こえなかった事にする。
生け贄が一人ですんだのは、不幸中の幸いだ。
町中を駆けながら、アレフが突如笑いだした。
「どうした?」
「やっべぇ。変身端末忘れたわ。グローブもねえ」
「奇遇だな。俺もだ」
ゾーマは慌てずに答えた。アレフはきゃははははと笑い声をあげる。
「しかしっ! そういう事もあろうかと、俺は常にこれを持ち歩いている!」
懐から取り出したのは、大きな黒い布だ。それは袋状になっており、被れる。目の辺りだけくり抜かれていた。
ゾーマはそれを迷わず被る。
「見よ! ロイトの先代、アルの父より譲り受けた、由緒正しい覆面だ」
その姿にアレフは走る速度を緩めないまま膝を叩いて爆笑した。
「なっ……それ……俺も……持って……ぶはっ!」
笑いながら、彼も懐から黒い布を取り出した。
「ロトの母親から貰ったんだ。あいつの親父が愛用していたんだと」
こんなところで役に立つとはなっ! と笑いながらアレフは布を被る。これで、二人の正体はバレないだろう。一安心だ。
「アルの父といい、ロトの母といい、素晴らしい先見の明だ」
ゾーマが感動すると、アレフが全くだと言って、再び笑いだした。
彼が楽しそうなのは、良い事である。
だからこそ、心の底から思う。
「この愉快な気持ちに水を指す魔物は、絶対許さん」
「俺もだ」
後悔させてやる。そう言うアレフの声に、笑みはなかった。
そこは、小さな林だった筈だ。
大魔王が降臨した場にたどり着いたヒーローズは、その光景に立ちすくんだ。
そこは草ひとつ生えていない、土色の広場になっていた。綺麗な円型である。周りを縁取るように生えた木々が、ついさっきまでそこが林であることを示していた。
真円の広場、その真ん中に、いい歳した男が二人、倒れている。いや、正確に言おう、爆睡している。
それが、全てだった。
魔物など、影も形もない。一体何が現われたのかすら、わからない。
酔っ払いの逆鱗に触れたそれは、林ごと塵となってしまった。
「…………酔っ払い、怖ぇ」
アレンの呟きが、夜空に消えた。