勇者のための四重唱


姫と執事と吸血鬼と 7

 部屋は沈黙に包まれた。

 シリルは声が出せない。思いが、言葉にならない。

「ねぇ、シリル」

 イレーネが、そっと彼の袖をつかんで、上目使いに見た。シリルは知っている。この顔は、無茶なお願いをする時のものだ。

「見送って」

「……分かって、いるんですよね?」

 魔物が人を求める理由など、そうない。そして、少ない理由の全てが、人を害するものなのだ。魔物の誘いに乗るということは、命を捨てると言う事と同意である。たとえ命があったとしても、彼女は彼女でなくなるだろう。

 かろうじて出た言葉に、イレーネは頷いた。

「私にとって、魔物も、あの人も変わらないから」

 死ぬことも、生きることも変わらない。彼女は諦めきった口調で言う。

「本当に私を求めてくれる人を選んだだけ」

 ヴァルターは、姫を求めた。どうせ、生きていても死んでいても同じなら、彼のために死のうと思った。


 それが、彼女の覚悟。

 それが、彼女が救いの手を払いのけた理由。


「ふざけるな!」 


 気が付いたら、シリルは怒声を上げていた。

 イレーネが、吸血鬼が、冒険者達が驚いて彼を見る。しかし、シリルはそんな視線に気づかない。

「君を求めるのが、この化け物だけ?」

 イレーネは知らない。

 この件で、どれだけ使用人たちが心配したか。

 彼女の父親がどれだけ後悔したか。

 赤の他人である冒険者が、稼ぎにならない危険を冒したか。

 イレーネは気づいていない。

 それらは全て、彼女を失わないためだという事を。彼女を求めていたからという事を。

「意に添わない結婚? 魔物への贄?」

 生きていても、死んでいても、同じ?

「よくない」

 低くシリルは呟く。

「どちらも、良くない」

 なんで、二つから選ぼうとする。人生はルールなんてない。作られた道が望まぬものなら、どんな手段を取っても、自分の一番良い道を見つけ出すべきなのだ。用意された道から消去法で選ぶのは、怠惰でしかない。

 シリルは違う。

 彼は、あえて存在する道を選んでいた。それが、一番良いと思ったから。シリルが一番守りたい大切な人は、この家から出ることができない。だから、ずっとこの家に仕えて行くと、決めた。彼女の使用人として用意されたこの道が、最良だと思ったからだ。

 しかし、それで彼女が守れないというのなら、話は別だ。

 もし、彼女が家から出るのだと言ったなら、シリルは別の選択をするだろう。彼の、領主家への忠誠は、まず、イレーネありきなのだから。

 使用人でいると彼女を守れないのなら、あえて道を外すことも厭わない。

 勇者にならねば駄目なのなら、勇者になろう!


「あ……」

 アドルの意図が、わかった。


 彼は、冒険者の企みにうまく乗せられた事に、気づいた。

 だが、それが何の問題であろう? 姫を守るためなら、乗せられても構わない。いや、望んで、乗ってやるのだ。

 何より、乗せられたと思えば、こんな重大な覚悟を決めるのも、容易い。

「決めた」

 シリルは怒りで眉を逆立てたまま、ずかずかと吸血鬼と姫の方へ歩み寄る。二人の間に立って、両手で繋がれた二人の腕をつかんだ。

 シリルは、ふんっ! と、力づくでその手を払う。緩く繋がれていた手が離れた瞬間を逃さず、シリルは姫を抱き寄せた。

「やらない」

 姫を、お前なんかに。見知らぬ婚約者なんかに、渡さない。

「私はあなたを守るためにいる」

 シリルは小さな姫を胸に抱き、強い口調で言った。

 それが、シリルの判断基準。だから、イレーネは相談すればよかったのだ。彼女がそれをしなかったのは、知らなかったから。知らなかったのは、シリルが言わなかったから。

 ……だって、そんな事、口に出して言える訳がない。

 それは、今の関係を保ち続けるためには、決して言ってはいけないことだから。それが、シリルが選んだ道だから。

 しかし、今は言わなくてはいけない。

 そうしないと、砂糖菓子のように柔らかいのに、宝石のように堅い意志を持つ姫を、止められないと分かっているから。

「あなたの幸せの為ならなんでもする。ここに居られないのなら、一緒に家を出ることも――」

 シリルは息を吐いた。

 困惑気味にシリルを見上げる彼女の緑の瞳を、真っ直ぐに見下ろす。

「――駆け落ちすることもかまわない」


 イレーネが、言葉を失って、腕の中で凍りついた。



「……あなたの、こう、理屈っぽいところが嫌い」

 そう言えば、エドはどこへ行ったのだろう? そんな事を考えてしまうくらいの長い沈黙が続いたあと、胸の中で声が聞こえた。

 イレーネは、ぐいとシリルの胸を押し、距離をとる。距離を取って、こんどは緑の瞳が、蒼い瞳を真っ直ぐ見上げた。

「もっと、分かりやすく言って」

 怒った口調。白い肌は上気して、ほのかなピンク色だ。

 彼女は怒っている訳ではない。ずっと一緒だったシリルだから分かる。ほかの誰にも分からない。分かってたまるか!


 シリルは青い瞳を和らげ、そっと彼女に口づけした。

 忠誠を示す手の甲ではない。

 子供をあやす額ではない。

 親愛を表す頬ではない。

 愛を表す、初めての……


「すみません」

「……謝らなければ完璧なのに」


 ぷっと誰かが遠慮なく吹き出す音で、シリルは、姫以外の人がいたのを、すっかり忘れていた事に気付き、顔を真っ赤にした。



 姫の呪縛は、解けた。

 魔物によって成された呪縛は解けていた。フェイスの解呪が効いたのか、それともその前に解けていたのか知らないが。

 残っていたのは、彼女の意志。その中にあった、絶望という名の、呪い。

 姫の話を、冒険者達は知っていた。姫が昼間、彼女の望みとともにフェイスに語ったからだ。その話をフェイスから聞き、アドルは計画を変えた。いや、大まかな計画は変えていないから、調整をした、と言うべきであろうか。

 魔物を倒すのは、自分たちではなく、姫の身内。彼らの世話をする使用人シリル。自分たちは、素人の彼が互角に戦える程度にサポートする。姫の囮を用意し、彼女自身は別室で眠らせておく。魔法の眠りが有効なのは、昨晩証明済みだ。

 その計画から変えたのは、彼女を眠らせないで、魔物に会わせると言う点。シリルがよほどヘタレでなければ、彼は姫の望む答えを与えるであろう。長年二人を見てきた城の女性たちの洞察力が正しいことに、期待する。期待どおりに彼が振る舞えば、姫は魔物を拒絶するだろう。

 保険はあったが、すべてがシリルにかかっていた危険な賭けだった。

 そして、賭けに勝った。

 姫の問題は解決しそうだ。

 今後、色々問題はあるだろう。イレーネとシリルが何と言っても、領主がそれを歓迎しても、断ることが難しい侯爵家の婚約者がいる事実は変わらない。だが、アドルが楽観視しているから、悪い方向へ転がることはないだろうと、彼は思っている。アドルはこの国のお偉方の事情に詳しい。


 あと、もう一つ……

 姫の望んだ、彼女だけが知って、願ったもう一つ……


 彼は、ひやりとした思いで、全体を俯瞰していた。

 すべてを忘れ、二人の世界に入っている者は良い。その展開をアドルが望んでいたのだから。

 気をつけるのは、カヤの外にいる魔物。

 この物語の、三人目の主役。

 フェイスはシリルの告白を聞いてから、夢見るように目を細め、胸の前で手を組んで二人を眺めている。二人を祝福したい気持ちで一杯なのだろう――彼はそう思った。だが、持ち場を離れる事は決してない。シリィはいつも通り悠然とした態度のまま、扉の前へ移動する。アドルは、のんびりベッドに座っているようだが、いつでも動けるように緊張している。彼には分かる。彼はそういう気配に、聡いのだ。

 そして、彼自身は、これから起こるであろう事態に備えて、自分の武器を構えた。






 これは、何だ?

 彼の目の前で展開されている、これは。

 柔らかな緑の髪の姫君が、自分ではない、別の男の胸に抱かれている。

 おかしい。

 そんなことはあってはならない。

 姫は、そんなことを望んでいないはずだ。

 立場上、表に出すことは互いに許されていない。だが、彼女の本心を知っている。彼女は自分と同じ思いを抱いている。そうに決まっている。


「結婚することになったの」

 そう、笑ったね。

 無理をしなくてもいいのに……


 誰だ?


 望まぬことを強いているのは、誰だ?


 分かることはただひとつ。

 その胸は、違う。

 姫は――マルタは永遠に僕のものだ!



 カキン!

 金属を打つ、高い音が響く。同じものなのに、手にする者によって、なぜ、こんなに音が違うのだろうか。

 それは、まるで楽器のように澄んだ美しい音色を響かせた。

「無粋だなぁ」

 シリルが手にしていた銀の剣で、魔物の赤黒い剣を受け止めたアドルが、シリルの背後で不快そうに眉を寄せる。部屋に響いたのは、剣を打ち合わせる音だ。

 鬼の形相をした吸血鬼が、いきなり襲いかかってきた。だがそれは、少し離れたところにいたアドルによって防がれた。

 吸血鬼が剣を振り上げた瞬間、アドルは一足飛びに吸血鬼とシリルの間へ割って入る。そして、持ち主がそれと気づく前に、シリルの手から素早く剣を引ったくり、吸血鬼の剣を弾いた。

 盗賊顔負けの早業である。

「油断するな、馬鹿」

 天井から低い声が落ちて来た。シリルは驚いて天井を見上げると、銀の固まりが音も無く降り立つ。エドだ。片手に小降りの弓を、もう一方の手に、矢を数本持っている。ずっと、隠れていたのだと、シリルは今、知る。

「いやぁ、ありがとう」

 アドルが吸血鬼の剣を文字どおり片手であしらいながら、敵の足元を指した。執事用の黒いズボンの裾が、矢で縫い付けられていた。エドが、身を潜めていた場所から射たのだろう。どこに隠れていたのか、シリルには分からないが。

 射られたズボンのせいで上手く動けないのか、吸血鬼は自由な方の足で地団駄を踏んだ。気に入らないと地団駄を踏むのは、この魔物の癖なのだろうか。

「ねえ、ヴァルター?」

 がむしゃらに振り回す吸血鬼の剣をかわしながら、アドルは魔物の名を呼んだ。

 しかし吸血鬼は、意味不明な言葉を叫びながら、攻撃の手をゆるめない。

「聞けよ」

 ゴン!

 アドルの足が、襲いかかる吸血鬼の胸に命中した。吸血鬼はそのまま後ろに倒れ込む。それでも射貫かれた矢は取れることがない。なにか、呪でもかかっているのだろうか?

 同じことに気づいたアドルが、エドへ視線を向けて、矢を指さした。

「エド、力強すぎ。床にめり込んでいて取れないじゃないか」

「悪かったな、加減している余裕がなかったんだよ」

「床の穴、修理代を請求されたら、エド持ちだからな」

「カルーラの貴族様は、そんなにケチなのかよ」

「――個人差は、あるよ」

 ……純粋に床に食い込んでいるだけらしい。

 上体を起こして、縫い付けられたズボンを引っ張る魔物の前に、アドルはしゃがみこんだ。彼の視線に気付いた魔物は、緑の瞳で彼を睨みつける、が、相変わらず縫いつけられた足が足掻いているために、間抜けさが先に立っていて、あまり迫力は無い。

「あった。天井裏に隠してあった。とんだお転婆姫だ」

 エドは、ちらりとイレーネを一瞥して、アドルへ四角い物を放り投げた。アドルは吸血鬼の相手をしているのに、危うげなくそれを片手で受け取る。

「あれはっ」

 イレーネが小さく声を上げた。隠していたのに、と。

 なにかと首を伸ばして見たら、それは本のようだった。

「全部話すのなら、出展もくれたら楽だったんだ」

「……ごめんなさい」

 エドの言葉に、イレーネは項垂れる。しかし、すごい隠し場所だな、と感心するエドをみて、これを屋根裏に隠したお転婆姫が、イレーネだとシリルは気づいた。

 彼らの会話を聞きながら、アドルは日記を開く。視線が完全に敵対する者から離れたアドルに、危ないだろうと、エドは溜息交じりに言って、手に持つ小ぶりな弓矢を構えた。

「姫が隠したのですか? あれは?」

「日記……」

 シリルの問に、イレーネは短く答える。

「姫の、ですか」

「そう。でも、わたしじゃない」

「姫じゃない姫?」

 ぱたんと本を綴じてアドルは顔を上げた。

「そう。イレーネ姫じゃない、ダッグ家の姫の日記」

 アドルはそう言って、吸血鬼を牽制していたエドの前へ出る。エドはしゃがんで長い足を払い、吸血鬼に尻餅をつかせてから、素早く一歩下がった。

 怒りの形相を浮かべる魔物の前で、アドルはしゃがみこんだ。

 彼は、吸血鬼と視線を合わせ、口を開いた。


『姫の名は?』


 それは、言葉で表すことができない不思議な声だった。

 アドルの、男性にしては高く、女性にしては低い声である事は、変わりない。だが、何かが違った。何が違うのか、分からないが、違うことだけは分かる。

 証拠に、魔物の動きが止まった。怒りの形相が、波が引くように穏やかなものへと変わる。

『君の姫の名前は?』

「……マルタ」

 彼は、シリルの知らぬ名を紡いだ。

「やっぱり……」

 イレーネがシリルの腕の中で呟く。

「彼女は『イレーネ』だ」

 エドが、こちらへ視線を送る。ヴァルターも、イレーネ? とエドの言葉を反芻して、こちらを見た。

「彼女は確かにダッグ家の姫君だが、おまえの姫じゃない」

「マルタじゃ……ない?」

「よく見ろ。同じ血筋の姫なら、誰でも良いのか? お前の想いは、姫の見分けがつかない程度なのか?」

「…………」

 ヴァルターは、付き物が落ちたような表情で、二人を見る。

「違う」

 小さく口が動いた。

「おまえの姫がどうなったか、それはおまえが一番知っている筈だ」

「姫……僕の……?」



 色とりどりのクッションに包まれて、優雅に微笑む彼女。

 控えめな彼のノックに気付き、いつも満面の笑みで向かえてくれる。

 あの笑顔は、彼にだけ向けられるもの。

 兄弟同然で過ごして来た、彼にだけ見せてくれるもの。

 身分の差は、二人の間にある関係を『信頼』と言う言葉でしか表現することを許さないけど、彼はそれ以上の絆があると知っていた。いや、信じていた。


「大切なお話。お父様が皆に発表する前に、あなたにだけはわたしの口から言いたかったの」


 あの瞬間までは。


「なんだい?」


 すべては正しいと信じていた自分が愚かしい。


「どんな重大発表だい?」


 この日常がずっと続くことを疑わなかった自分に、嗤えてくる。


「結婚することになったの」


 恥じらいの交じった、笑み。あふれ出しそうなものを必死に隠しているが、それでも漏れて出てしまっている。

 今まで見た、どんな姿よりも、愛らしくて美しい、笑み。


 そんな笑み――知らない。



「あ――」

 思い、出した。


「ぼ、僕は……」

 ヴァルターの声が、震える。見開かれた眼は、この世界を見ていなかった。いや、初めて世界を見たのかもしれない。

「許せなかった。裏切りだと思った。少なくとも、あんな幸せそうな笑みで、言って欲しくなかった」

 それは、彼の信じていた、二人の関係を全否定されるような笑みだった。

 せめて、もう少し悲壮であってくれたなら。

 この、彼の知らない姫君のように、決められた婚約に、抵抗しようとしてくれたら。

「だから……」

「だから?」

 先を促すのは、アドルだ。

「だから、殺した」

 シリルは、息を呑む。

 しかし、驚いているのはシリルだけのようだ。冒険者達だけでなく、イレーネも、やはり、という表情を浮かべている。

「許せなかった。でも、それ以上に彼女を渡したくなかった。自分のものにしようとした。だから――だから」


 ナイフで首を切り、その血を啜った。


 吸血鬼ヴァルターの誕生である。




 魔物に変化する人間の行動は、支離滅裂であることが、多い。

「一応、本人の中にはきちんとした理屈があるようだけどね。あまりにそれは感情的で、非論理的で理解が難しい」

 アドルは言う。

 それにしても、よく分からない。

 誰の手にも渡したくないから、殺した。までなら、辛うじて理解できる。なぜ、血を啜る?

「そういう信仰や風習はあるね。血の契約。啜るんじゃなくて、血を文字通りに交えて誓い合う。義兄弟の契りとか、結婚とか。宗教的な儀式だ」

「オストルムに、そういう風習がある部族がいるね。どこかの国も血で忠誠を誓っていたんじゃないかな」

 シリィが補足する。

「それをどこかで聞いて、印象に残っていたのかな?」

 伝聞なら、曲解する事もよくあるだろう。魔物は行動が両極端だから――だからこそ、世界の和から外れてしまうのだが――血を吸い尽くす、と言う行動に出てしまったとしても、おかしくない。婚姻の契りとしても、あまりに一方的すぎるが、その辺りの理屈が通用したら、そもそも世界の和から外れない。

 アドルは肩を竦めた。

「血を啜った。だが、姫は自分の者にはならず、消えてしまった」

 それから、しばらくの年月が過ぎる。その間、何の音沙汰もない事を考えると『冬眠』していたのかもしれない。ゾンビ系の魔物によくある習性だ。

 そして、ある時、ふと目が覚める。屋敷に姫の気配を感じる。覗いて見れば、緑の髪の姫がいる。『マルタ姫』が、いる。

 そして、彼女には婚約者がいる――意に添わないはずの。いや、そもそも、ダッグ家の姫に婚約者が出来ることが、目覚めの鍵なのかもしれない。

 しかし、そんな事は、彼には関係ない。

 目覚めた彼は、姫を助けるだけだ。

 望まぬ婚姻に嘆く『マルタ姫』を助けるだけだ。

 その方法は、魔物となった彼には、一つしか考えられない。彼女をこの世界から攫う。そして、血を啜り、姫を永遠とする。

 しかし、永遠を与えたはずの姫は消えてしまう。彼はまた眠りにつく。そして、起きたら屋敷に姫がいる――


「酷いな……」

 シリルは嘆息した。

「無限地獄だ」

 殺される姫も気の毒だが、加害者の魔物も不憫である。

「魔物とは、そういうものだ」

 諦観した風に言うのは、エドだ。フェイスが、神妙な口調で後を続ける。

「その地獄から救い出すためにも、魔物は光の元、あるべき姿へ帰してあげないといけないのです」

「倒すしか、方法はないの? わたしは、救ってあげたいの」

 シリルの腕をキュッと握り、イレーネが尋ねた。

「知っています」

 フェイスが神妙な顔で頷く。

「それが、あなたの願いですから」

「……そうなの?」

 驚いて彼女を見ると、イレーネはこくんと頷いた。

「あの日記を見て、この魔物の正体が予測できたから。助けてあげたいと、思ったの。どうせ意味のない命なら、彼を救うために、彼の願望を満たすために使おうと思ったの」

 彼女は、哀しい魔物に同情している。心優しい人なのだ。事情を知れば、救いたいと思うのも自然である。ましてや彼は、人も、方法も違ったが、確かに彼女を救おう動いてくれた人なのだ。

「でも、魔物の為すがままになっても、誰も救われません」

「……でもっ」

 シリルとイレーネの懇願するような視線に、フェイスは冷酷にも、首を横に振る。

「魔物となった人を救う方法は、一つ。滅することだけ。魔物を生きたまま元に戻すことは、普通、不可能なのです」

「そんな……」

 イレーネが、かわいそう、と唸る。

 フェイスはそんな彼女を申し訳無さそうに見た。

「そう、普通は、無理なんです」

 魔物を、世界の和から外れたモノを、和に戻すのは。それが出来るのであれば、僧侶は喜んでそれを実行するだろう。しかし、出来ない。それらは死によってしか、戻る術はない。

 普通は――


「分からないことがあるんだよね」

 先程の会話をまるで聞いていないかのような声が、沈痛な空気を無理やり破壊した。

「イレーネ姫と、ヴァルターは二人きりで会ったんだろう? なのに、なぜそれを周囲が知ることとなった?」

 アドルの発言は、空気を読まない。

「彼と会って、姫はすぐに彼の手を取ったのだろう?」

「は、はい……」

 問われて、イレーネは反射的に答えを返す。彼女の答えに、満足そうに頷いてから、アドルはヴァルターの方へ振り向いた。

「なんで貴方は、すぐに姫を連れ攫わず『悲鳴を上げさせた』?」

「悲鳴?」

 イレーネが首を傾げた。驚いている。

「え?」

 シリルには、彼女の反応こそが驚きだ。

 最初の晩、異変に気づいたのは彼女の悲鳴が聞こえたからだ。慌てて寝室に入れば、ぐったりと横たわる姫がいた。彼女は辛うじて魔物が現れたとだけ告げ、そして、意識を失ったのだ。

「……知らない」

 イレーネは、首を振る。

「わたし、そんなことしていない」

「うん」

 アドルは、分かっていると頷く。

「姫を魔法で支配した魔物が、悲鳴を上げさせたんだ。周囲に姫の危機を知らせるために」

「なぜ?」

 ぽかんとシリルはアドルに尋ねる。彼は、それが分からないんだ、と言って、座り込んだままのヴァルターの前にしゃがみこんだ。

 深く、蒼い瞳が、魔物を静かに射る。

「貴方は、姫が欲しかった。でも、それ以上の望みがあったはずだ」

「……望み?」

 ほうけた魔物は、魅入られたかのようにアドルの視線を外せない。

「私はそれがなんだか知らないよ」

 でもね。

『君は知っているはずだ』

 声が、変わった。

 変わっていないのに、変わったと感じた。

 そう思った瞬間、魔物は誘われるように口を開いた。

「見たかった……理想を」

「理想?」

「そう、夢物語だよ。身分を越えた愛。それが成就する瞬間。僕には持てなかった、身分と言う壁を破る瞬間」

 そう、彼の姫が大好きだった、姫と騎士の物語。決して越えられない身分を越えて見せた、騎士の話。

 彼があこがれ、そして諦めてしまった、物語。


「僕の絶望を、否定する物語があることを、知りたかった」


 だから、姫を自分のものとする前に、城へ姫の危機を知らせた。

 これで立ち上がる従者――いや、勇者が現れることを期待して。見事、ヴァルターという魔の手から姫を救い、姫を自分のものとする勇者を。自分とは違う方法で、姫を手に入れる従者の姿を望んで。


 やっと、会えた……

 本当に望んだ答えに。


『満足したかい?』

 アドルの声に、彼はこくりと頷く。

「ありがとう。そして、ごめんなさい……」

 ヴァルターは、穏やかな笑みを浮かべ、瞳を閉じた。

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