勇者のための四重唱


姫と執事と吸血鬼と 6

 目覚めた時、一番最初に目に入るのは柔らかな輝きをもった真円の月だ。

 どことも知れぬ山の中で、木々の間からその光は彼を照らす。色の無い世界で、月の光だけが鮮やかだ。

「あぁ……行かなくては」

 いつの間に眠りについているのか、どれだけ寝ているのか、なぜ起きると常に満月の夜なのか、そんなことは気にならない。彼の頭の中にあるのは、ただひとつ。彼がやるべきことは、ただひとつ。

「姫――」

 失った色を。彼女を求めて。



 満月の夜は、明るい。特に守護月のそれは。フェイスが大きな窓から月明かりでほのかに青く染まった夜空を覗き込んでいる。

 吸血鬼が襲ってくるのは満月の晩だ。分かっていれば、備えは簡単である。姫の寝室の窓際にはフェイスが、反対側の死角にはシリィが待機している。他の二人の姿は、シリルのいる位置からは見えない。彼自身は、昼間アドルに渡された剣を腰に下げ、所在無さげに扉の前に佇んでいた。

 視線はベッドの上。人型に膨らんだ布団の上だ。

「シリル」

 鋭い小声にシリルは視線を動かす。シリィが来るよ、とささやいた。シリルは慌てて身を隠す。アドルに指示された彼の待機場所はベッドの影だ。窓から死角になるその位置に、身を潜める。

 窓から死角ということは、こちらからも窓は見えないということだ。いつ来るとも分からない魔物に体を強ばらせて呼吸すること十数回。ガタリと窓が鳴った。

 ガタガタと窓を揺さぶる音が数回続いた後、静かになった。諦めたかと思った時、キィと両開きの窓が開く音がして、シリルは息を飲む。戸締まりはしっかりしていた筈だ。なのに、何故窓が開く?

「姫……」

 甘い声が、静まり返った部屋に響いた。少年というほど幼くないが、壮年というほど深くもないバリトン。初めて聞く声だ。

 シリルは息を殺して魔物の気配を探ろうとする。しかし、足音をすべて消す柔らかな絨毯では、それがどこに居るのかすら分からなかった。

「かわいそうに」

 侵入者は声を潜めて、ベッドの塊にささやいた。

「今日も、居るね。僕たちの夢を阻むものが」

 ベッドのすぐ側にいたシリルには、辛うじてその声は聞こえる。

 夢? おまえと……誰の?

「……わかるの?」

 くぐもったか細い声が、布団の中からする。これも、辛うじて聞こえるくらいの声量だ。

「わかるとも。窓のカーテンに隠れているのと、扉近くのクローゼットの横にいるの。気配を殺して背後を狙おうとしているのかな」

「あなたの夢を阻むのは、それだけ?」

「そうだよ?」

 侵入者の声が揺れる。可憐な声が発する言葉に、違和感を覚えたのだろうか。

「どうしたんだい? 行くんだろう」

「はい」

「では、手を……」

 我慢できなくなって、シリルはベッドの陰からそっとのぞき込んだ。ふっくらと膨れた布団から、白く細い手が伸びて、侵入者の手を取っているのが、見える。

 月明かりにうっすらと照らされた侵入者は、青年の姿をしていた。黒い服は、見え覚えがある。彼がまだ見習い以前だったころ、使用人達の正装にと支給されていた服だ。闇に映える金色の髪はふんわりと柔らかい。彼の角度から見えるその男は、女受けの良さそうな優男だった。

 よく考えたら、こんなにじっくりと姿を見たのは始めてかもしれない。

 布団から差し出された手が、男の手のひらに触れる。その瞬間、男は細い手首をがしっと握り、ぐいっと力づくで引っ張った。

 薄桃色の布団が飛び、姫の姿が露になる――

「……っ! お前はっ!?」

 侵入者の顔が、驚きと怒りで醜く歪んだ。知的な碧眼の光が狂気の光に取って変わり、口が裂けて牙が覗く。これが、侵入者の本当の姿であろう。伝説どおり、鋭い牙をもった人型の魔物の吸血鬼。

「こんばんは、吸血鬼さん。良い月夜ね」

 布団から現れたのは長い緑の髪の少女ではなく、短い空色の髪の、一見少女と見紛う少年だった。

「布団の中身を間違えるだなんて、本当にあなたが求めていたのは、姫なのかしら」

 彼――アドルは声色を変えたまま、ふわりとほほ笑んだ。魔物が握っていた手は、逆にしっかり魔物の腕を掴んでいる。

「は、放せっ!」

 吸血鬼が手を振りほどこうと、必死になって身を捩る。しかし、アドルの細腕に掴まれた魔物の腕はびくともしなかった。

 うんうん唸る吸血鬼を無視して、アドルはおもむろに腕を引いた。吸血鬼は引っ張られて、ベッドに膝をつく。顔を歪める魔物の目の前で、アドルはこの上なく綺麗な笑みを浮かべた。

「本当に、大した力は無いようだ。ノルが倒さなかったのが、不思議なくらいだね」

 少年の声でアドルは笑った。

 彼は魔物の手を放して、悠然とベッドから降り立つ。魔物が彼の空気に飲まれて呆然としている中、アドルは部屋の中程までゆったりと歩いて、魔物へ向き直った。両足を肩幅に広げ、片手を腰に当てる。仁王立ちとでも言うべきだろうか。その格好で、彼はビシッと吸血鬼に指を突き付けた。

「よし! 野郎共、やっちまえ!」

「誰が野郎なんだい」

「アドルちゃん! その台詞は敵側のものです!」

 アドルの口上にすかさず突っ込みをいれたのは、部屋の両端にいた二人だ。そんな二人にアドルはてへ、と緊張感なく笑ってみせた。

「ふっ……」

 冒険者のやり取りに、吸血鬼は肩を震わせながらゆらりと立ち上がる。影から見ているシリルにもわかる……奴は、怒っている。

「ぶざけるなぁっ!」

 案の定、魔物の怒声が響き渡った。

「真面目、真面目」

 しかし、アドルの口調は軽い。

「思いっきりまじめだから、いつも」

「主語を省けるのは便利だね」

「それは、言わない約束だろう」

 アドルはシリィに向かって軽く手を振ってから、おもむろに歌い出した。

 突然だ。

 あまりにも突然なのに、そこに歌があることを、なぜか納得してしまう歌声だ。

 そのタイミングは彼女たちも予想外だったのだろう。部屋の両隅にいるフェイスとシリィは、苦笑交じりに視線を交わしてから、扉と窓にそれぞれ手をつけ、口を開く。アドルを追うようにして、高低二つの女声が部屋に響き始めた。混声三重唱というより、女性三重唱に聞こえる歌が完成する。その瞬間、吸血鬼の表情が変わった。

「貴様っ! 何を!?」

 魔物はいきり立ち、歌を止めようと一番近くにいるアドルへ襲いかかった。しかし、彼の手がアドルに届く前に、彼は素早くしゃがみこんで片足を振り回す。アドルの足は、見事に吸血鬼の足を払った。バランスを崩して、二足歩行の魔物は柔らかな絨毯の上に転がった。その一連の動作の間、アドルの歌が乱れることはない。

 彼の歌が止まったのは、ひとつしかない彼の口が別の言葉を発したからだ。

「背後でお前を狙う? 私達にそんな気は、さらさら無いんだよ」

 何を? と体を起こした魔物の肩を、アドルは容赦なく蹴り倒した。冷たく光る蒼い瞳に、魔物の碧眼が脅える。

「ぼ、僕を殺すのか?」

「それは、私達の役目ではない」

「「はぁ!?」」

 アドルの言葉に、シリルと魔物の、両者の叫びが重なった。

 不本意にも、見事に声が一つになった二人は、一瞬、互いに顔を見合わせた、すぐに、シリルは首を振って、敵から視線を外した。同時に視線を交わしてしまった事すら、忌々しい。

「話が違うじゃないか。何のために雇っているんだよ!?」

「姫を助けるため」

 アドルの答えは、迷いが無く簡潔だ。

「だからこそ、私達の役目ではないと、判断した」

 言っただろう、とアドルはシリルに問いかける。

「勇者は誰かな?」

「……」

 分かりたくない。

 シリルは視線を自らの腰へと落とす。押し付けられた銀の剣が、重い。

「大丈夫。死なないように、援助はする」

 姫を本気で守りたければ、行動で示せ。

 その言い分は、正しいと思う。だが、納得できない。明らかに勝てる者達が居るのに、なんでシリルが戦わなくてはいけないのか、が。

 戸惑うシリルを一瞥して、アドルは吸血鬼を突き放した。恨みと怒りに満ちた魔物の視線をものともせず、彼はベッドまでゆったりと歩き、ふわりと腰を下ろす。優雅に足まで組んで、見事な傍観態勢である。

 視線を左右へと動かすと、女性二人は励ますような、同情のような視線を返した。彼女たちの口はずっと動いている。意味を為さない、言葉で表現し難い音と、不思議な旋律。それが『呪文』である事を、シリルは知っている。効果は知らないが。

 あきらめ半分に意を決して、シリルは腰に佩いた剣の柄を握った。

 しかし、相手の魔物はこちらの様子に気づいていない。

 金髪碧眼の魔物は、相変わらず凄い形相でアドルを睨んでいた。

「姫を、どこに隠した」

 しゃがれた声が怒りで震えている。

「教えてほしければ、そこの執事を倒すんだね」

「振るなよ!」

「アドルちゃん! それもやっぱり悪役の台詞です!」

 今度は、シリルの悲鳴とフェイスの突っ込みが重なった。フェイスの声にえ? と思った時には、彼女は何食わぬ顔で歌を再開している。

「私は、どちらが勇者でも構わないんだ。最終的に、姫を『救った』者であれば」

「……どう言うことだ?」

 しわがれた声が低く凄む。アドルは妙に可愛らしく小首をかしげた。

「本当の、姫の夢を持っているのはだれかな? と思って」

 姫の夢。

 アドルの言葉を聞いて、シリルの脳裏に描かれたものは、淡い色のクッションに体を埋めて、可憐に微笑む姫の姿だ。


―― このクッションみたいな、綺麗なレースのドレスを着るの。


 今の姫より幼いその姿。あれはいつのことだっただろうか。


―― 王女殿下は、お可哀想。恋も出来ずにこんな幼い時から結婚する相手が決まっているんだもの。


 それは、聖王の一人娘の婚約者が決まったと、国中が沸き立った時だったか。イレーネはお祭りムードを尻目に、王女が可哀想だと言った。


―― わたしは、好きな人と結婚したいわ。意に添わない婚約者と一緒になるくらいなら、死んだ方がマシ。


 あの姫は、砂糖菓子のような雰囲気から想像出来ないような苛烈な発言を、たまにする。そして、シリルを驚かせる。

 そこで、シリルは、はたと気づいた。

「意に添わない、結婚? ……まさか!?」

 迂闊だ。間抜けだ。鈍感だ。

 シリルは自分を罵る。

 わかった。姫が、自分を守る冒険者に、協力的ではなかった理由が。

 まだ見ぬ婚約者を得た姫の、今の夢……

「させない」

 シリルは、すらりと銀の剣を抜いた。

 迷いなど、吹き飛んでいた。


 キィン――と高い音がする。

 シリルの振るった剣は、吸血鬼の目の前で止まった。銀の剣と交差するのは赤黒い細身の剣。

「どこからっ!?」

 武器など持っていなかったはずなのに!

 驚くシリルに、魔物はニヤリと笑い、ぐいと手に持つ剣に力をいれた。押し返されて仰け反ったシリルは、態勢を整えようと、やむを得ず一歩退く。警戒していた追い打ちはなかった。もう一歩退いて、今度は剣を構え直す。嗜み程度の基本剣術しか知らないシリルの構えは、常に目の前に剣を掲げる正眼だ。

 相対する魔物も正眼。

 シリルは相手の隙を伺うとか、そういうことは良く分からない。だから、とりあえず剣を大きく振りかぶった。

「はあっ!」

 気合の声を出して、剣を上から下へと振り下ろす。慌てて頭上に構えた相手の剣と当たり、再び甲高い音が部屋に響いた。シリルは力で押すことをせず、後退する。追いすがるように吸血鬼の剣が振り下ろされたが、十分な態勢から放たれなかったそれは、目測を誤り、たまたまそこへ構えていたシリルの剣に当たった。

 ここまでやれば、シリルにも分かる。こいつ、そんなに強くない。シリルと互角にやれる程度だ。

 それを悟ったのは相手も同じらしく、間合いを取った魔物は地団駄を踏んだ。

「くそっ……くそっ!」

 悪態をついて、吸血鬼はびしっとアドルを指さす。

「卑怯だ! 魔封じの結界を解け!」

「私の魔法じゃないしー」

 鼻歌交じりでアドルは答える。

「結界?」

 まさか、女性二人の歌はそれか? 確認するように窓へ視線を投じたら、目の合ったフェイスがにこりと笑って頷いた。

「それに、素人相手に魔法ってのも、格好悪いだろう?」

「お前が決めるな!」

 アドルがしてやったりという笑みを浮かべる。魔物が狼狽すればするほど楽しいようだ。性格が悪い。

「文句があれば、結界くらい打ち破れば良いじゃないか」

 意地悪なアドルは、しれっと言う。

 それが出来ないから、こう無様に文句を言っているのではないか? そう思ったが、吸血鬼は、シリルが想像するような不満な表情を浮かべてはいなかった。

「そうだな、それも一理ある」

 ニヤリと笑う。牙が、凶悪に光った。

 何か、策があるのだ。シリルはとっさに構えた。フェイスが、シリィが起こる事態に備えて緊張する。アドルだけが、次の一手を悠然と待っている。

 アドルがゆっくりと足を組み直した時、吸血鬼の口が大きく開かれた。白い歯に真っ赤な舌。そして、吸い込まれるような闇。

「姫! 姫、僕を助けてください!」

 金髪碧眼の優男は、その外見に見合ったみずみずしい色に声を変えて、叫んだ。


「……」

 沈黙。

 その発言に、だれもが声を失う。

 と、その時、扉がバンと開かれた。

「ヴァルター!」

「なっ!?」

 現れたのは、桜色のシンプルなドレスを着た少女。シリルの姫君だ。

 シリルはポカンと口を開け、対する魔物はにやりと口の端を持ち上げた。

 部屋に飛び込んだイレーネは、真ん中で剣を持っているシリルと目が合った瞬間、戸惑いの表情を浮かべる。まさか、ここに彼がいるとは思わなかったのだろう。シリルだって、彼女がくるとは思っていなかった。別室で寝ていたはずなのに、なぜ? 彼女についていた、エドは?

 すっと逸らされた視線に、シリルはぎりっと歯を噛み締める。

「おお、姫!」

「ヴァルター……」

 喜色を浮かべる魔物の名を、イレーネは呼ぶ。なぜ、誰も知らない名前を彼女は知っている?

 戸惑う従者の目の前に、姫は歩を進める。真っすぐに相対して、彼女は両腕を大きく広げた。

 まるで、彼女の背後にいる魔物を庇うかのように。

「姫!?」

 シリルは悲鳴を上げた。

「分かっていて、やっているんですよね?」

 吸血鬼を守るという意味が。彼女に起こる結果が。

 イレーネは神妙に頷いた。

「そんなに嫌ですか!?」

 シリルは怒鳴る。

 怒りが沸き起こって止まらない。何も知らず、何も気付かなかった自分に対して。簡単に命を粗末にしようとしている姫に対して。

「会いもしない婚約者が、そんなに嫌ですか? 命を懸けるほどの事ですか? なぜ……なぜっ!」

 シリルは言葉を詰まらせる。思わず握り締めていた拳が、ぎりりと震える。

 言っていて、情けなくなった。空しくなった。だって、彼女は独りで決めてしまったのだ。

「……なぜ、父上に嫌だと言わない。僕に、相談しない」


 僕に相談する前に、なぜ、魔物の牙にかかることを選ぶのか。


「シリル」

 固く握り締めた手を、小さな柔らかな手が包んだ。

「ごめんなさい」

「謝られたくない」

 謝るくらいなら、思い直してほしい。

「断れないの。そして、会う前からあの人は嫌だったの。分かっていたの」


 イレーネは語り始めた。



 父からの17歳の誕生日プレゼントは、物としては一枚の絵だった。

 そこには、イレーネより少しだけ年上の男性が描かれていた。金糸をあしらった紺のスーツを着ている。ゆったりと波打ち額にかかる髪は濃紺。キザに光る瞳の色は、青みがかった灰色だ。ここまで青色が強いとなると、王家の血を少し引いているのかもしれない。

 絵の隣には、その人物の物らしき経歴が書かれていた。その名前を見て、イレーネは顔を上げる

「お父様、この方は?」

「婚約者だ」

 誰の?

 思わず出かかった言葉を飲み込む。

 シリルだったら、奥の棟にいる使用人たち相手だったら、お父様の婚約者ですか? と冗談を言えただろう。だが、相手は謹厳な父である。イレーネの婚約者なのかと、分かり切った問いをする事もできない。

「そうですか……」

 嫌です、とも言えなかった。言ったところで無意味だろう。この姓は、聖都に住み、城へ通う上流貴族だ。確か当主は公爵だったか。地方都市の一領主であるダッグの当主は、地方貴族にしては身分がある方だが、それでも子爵である。

 公爵家のものが、子爵家に婿入りするなど、異例中の異例と言ってもいいだろう。彼らは、聖都に住む子爵家の子女を下級の使用人として雇う人間だ。地方の一領主にとって、願っても得られない良縁である。いや、嫌でも断ることなど考えられない申し出である。

 しかし、この男性は……



「何年か前、王女殿下の婚約者が決まったって話をしたの、覚えている?」

 話の途中で問われて、シリルは頷いた。王女の婚約者が決まったと沸き立つ中、一人、お可哀想と顔を曇らせていたイレーネの姿が脳裏に浮かぶ。

「その後、婚約を破棄されたことは?」

「破棄?」

 だれが、だれの?

「殿下が、聖王家側が破棄したの」

「ありえない!」

 シリルは思わず叫んだ。彼は一介の使用人だが、姫の言葉が、何を意味するのかぐらい知っている。

 聖王は、国民を統べ、政を司る者だが、帝国ビリディスの様に絶対ではない。王と対等な立場で意見し、王の行為を認める――特に、神事が関連することについて――存在が、この国にはあるからだ。それは神殿と呼ばれ、その最高責任者は大神官と呼ばれていた。

 貴族の結婚には政治的な意味合いが強いことが多いが、結婚という行為事態は神事がからむ。特に聖王家に関しては。つまり、王女の婚約者が公に発表されたと言うことは、神殿が認めたということだ。そして、神殿が認めた事を覆すのは、難しい。彼らは、その立場上、非常に頑固なのだ。

 それゆえに、余程の事がない限り、一度決められた王家の約束は、少なくとも王家側から破られることはない。それが破られたということは、婚約相手が破棄されるだけの、余程の事があったのだろう。

「公爵家が潰れたという話を聞いていない。と言うことは、問題は、その婚約者自身でしょう?」

 シリルは頷く。身内が大罪を犯したと言う類の理由なら、まず、家に何かしらの処分がある筈だ。それが無いということは、婚約者自身が問題であるとしか考えられない。

 だが、分からないことがある。

 その話とイレーネと、何の関係があるのだろうか?

「それが、婚約者」

「……え?」

 シリルはぽかんとイレーネを見る。だれが? だれの? という問いすら忘れた。

 そんなシリルに、イレーネは儚く微笑む。

「王女殿下に断られるような人、わたしは死んでも嫌」

 その言葉は、儚げな笑みに反して、強い意志をもっていた。


「……絶望で打ちひしがれている時、彼が来たの」

 笑みを消して、イレーネは話を再開した。



 イレーネは、父の部屋から退出した後、自室に飛び込んでクッションの中で一人うずくまって泣いた。

 死のうと思った。

 死ぬしかないと思った。

 異例の婚約破棄をされた男の妻となって、自分が幸せになれるなど、思えない。死ぬより辛い目に遭うに決まっている。父はなぜ受けたのだろう。父が相手の事を知らない訳がないだろうに。王家に連なる公爵家相手では断れなかったか。それとも、相手の家柄にひかれて二つ返事で受けたのか。どちらにしろ、娘の思いなど関係無いのだ、あの人には!

「…………」

 誰もいない部屋で一通り嘆いたら、少し落ち着いた。さて、具体的にどうすべきか考えようとした時、月明かりが差し込む窓が音を立てる。

「誰?」

 ぴりっと緊張して注視する中、窓は悠然と開いて、影が部屋に躍り込んだ。

「泣いているのかい?」

 差し込む満月の月明かりが影を作り、侵入者の顔はイレーネから見えない。しかし、この声は彼女を安心させた。

 違う声だと分かる。でも、似ている。

「助けてあげようか?」

 柔らかな絨毯は、足音を消す。音も無く歩み寄った侵入者は、彼女の目の前でしゃがみ込み、泣き顔をのぞき込んだ。

 目の前に来て、初めて侵入者の前身が露になった。

 金色の髪に、緑の瞳を持った男性だ。黒い服は見慣れたものだった。昔の、使用人の正装である。使用人かと思ったが、昔の服を着ているところが、おかしい。しかも、イレーネの知らない顔だ。

 見たことがない人。だけど、似ている。

 何が似ているのかと思ったら、イレーネを心配している時の彼の表情に似ているのだ。心配でたまらないけど、どこまで踏み込んでいいのか分からなくて、ちょっと遠慮しながら、それでも精一杯思ってくれているあの人の。

「僕はヴァルター。貴方を救いに来た」

 真っすぐに言われた言葉に、イレーネの胸がどくんと鳴った。

 予感がする。

「僕が、連れて行ってあげようか?」

「どこへ?」

 イレーネの問いに、男は子供をあやすような笑みを浮かべた。我が儘を言う姫を、しょうがないと笑う使用人に、これも似ている。

「幸せの国。望まぬ相手に追いつけないところ」

「ルクシスの向こう?」

 イレーネは、領土の北に面する、決して越えれない山脈の名を挙げる。イレーネだけではなく、この大陸に住むの人にとって、誰も追いつけないところと言われて、最初に出てくる場所はそこだった。

「姫が望むのなら」

「無理よ。行けるはずがないわ」

「まぁ、ルクシスは無理でも、貴方を婚約者の魔の手から逃す事はできるよ」

 男は、碧眼を真っすぐイレーネへと向けた。

 イレーネと同色の、しかし少しだけ明るい色の瞳だ。

「僕が、貴方をいただく」

「――え?」

 その意味が分からないほど、イレーネはその手の展開に、夢を見ていない訳ではない。しかし、夢がいきなり現実になっても、すぐに順応できるほど柔軟でもない。

 男は片膝をつき、戸惑い硬直するイレーネの右手をそっと取り、口づけをした。

「迎えに、来たんです」

 そう笑って、男は立ち上がった。

「ほ、本当に!?」

 イレーネは顔を上げる。ようやくのみこめた事態に、顔が火照っていた。

 予感がした。

 凄く良い事と、凄く悪い事、その両方がやってくる予感が。

「来て、いただけますか?」

 ヴァルターが手を差し伸ばす。その手の上にイレーネが自らの小さな手を乗せた途端、彼はその手首を握って、自分の方へと引き寄せた。

 イレーネの身体は、容易く男の胸に収まる。

 首筋に何かが触れる。

 その瞬間、何か歌が聞こえる気がした。


 なんの歌かしら?


 その後は、良く覚えていない。

 気が付いたら、ベッドの上で、心配そうな表情で覗き込む使用人達を見た。

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